アリスとテレスの矢

考え事が多いもので。

今、できることに集中。

どうも、最近体調崩し気味の者です。おそらく日頃の運動不足や姿勢の悪さが血流不足を招いてるものだと思っていますが、過去にも増してこういう日が増えています。

友達連中にもわりと似たような症状や体の不調をきたしているのがチラホラみえるので、そういう年齢に差し掛かっているんだと。

そういった不定愁訴や日頃の行いに発する不調に悩まされると段々と気持ちまで暗くなってきます。

特に思うのは、今日できていたことが明日にはできなくなるのではないかという漠然とした恐怖。例えば、20代前半の頃はロードバイクで1日100キロ以上走れていたのが、今や会社の階段を昇るだけでも息があがってしまっり、受験生の頃には微積の長ったらしい計算をゴリゴリ解いていたのに、簡単な四則計算すら暗算に時間がかかるようになってしまうなど。

尚のこと、そこそこに自分なりに凄いと思うことができていたからこそ、これからの自分の落ちていく姿を直視できなくなってしまっているわけです。

けれども、過去にそういったことができていたのは、そのときできることに自分のリソースを注いでいたからであって、今となっては頭も体もまるで当時のように働かせていないのが事実。いくらそれを悔いても過去は変えられないのもまた事実。

さらに言えば、将来は将来で不安なことがいっぱいです。個人的な悩みはもちろん、少子高齢化に産業界のパラダイムシフト、果ては戦争や資源問題などの国際情勢などなど。気にしたらキリがないくらい不安材料など無数にあります。

自分では変えられない大きなうねりはともかくとして、自分個人の将来を決めるのも明日の自分である前に今日の自分なんだと。いや、まさに今この時の自分ではないかと。

二手三手先を読むのは大事なことですが、それは今指すべき一手が決まっているからであって、目の前のスライムを疎かにしてゾーマは倒せないということなんだろうと。

 

自戒。

肯定して進む人、否定して進む人。

具体的に何かしたいことがあるとき、ハッキリした目標があるとき、まずはそれに向かってやってみる始めてみることが一番だと、成功している人たちは皆言いますね。

やった人が全て成功しているわけではないけれども、成功した人は全員やり始めてやり遂げているとも言います。

それは間違いなく事実だと思うのでそのことを前提に話をすると、では何かを成功させるにはポジティブ思考の持ち主でないといけないのか?という問いに当たります。

これ、少々論理の飛躍があるんですが、言いたいことはわからなくもなくて、まずやってみるという行動自体がポジティブ思考に基づいているように思えてくるわけです。

けれども、成功している人というのは、まずやってみるという段階に至る前に成功のイメージや目標を頭の中で組み立ててから始めていることがほとんどです。

ちなみに、この頭の中での計画をやらずにやってみる人というのは、無謀や向かう見ずなどと言われてしまう人たちです。

したがって、まずやってみるというにもやっぱり準備が必要ということなんですが、勘違いしてはいけないことがあって、それは始めることが前提であるということですね。やるかやらないかで悩むのではなく、成功するためにはどうしたらいいか?ということに思考を集中させることの一点に尽きます。

さてさて本題なのですが、この成功への道筋を考えるにあたって、根本的にその人がポジティブである必要はまずないということを言いたいです。ポジティブかネガティブかというのは単に思考法が異なるだけだと。

ポジティブな人は、目標達成のために上手くいく確率が高いと判断した道筋や手法を抽出していくという考え方で道筋を構築していきます。これは割と容易に想像がつきますね。

一方で、ネガティブな人はどうすればいいかというと、目標が達成できない道筋や手法を消去法的に排除して失敗するイメージを消していくことが思考法としては良いのではないかと僕は考えるわけです。

簡単にいうと、ネガティブな人の場合は、この方法だと失敗する確率が高いからこれはやめておこう、といって最後に残った方法を選べばいいという具合ですかね。

最後に残った選択肢に満足できない人がいたら、それはネガティブなのではなく思考と調査不足です。ネガティブな人は自分に自信がない人がほとんどだと思うのですが、自己の決定に自信が持てない分を外のリソースに委ねるしかありません。具体的には、失敗するケースを徹底的に調べることでしょうか。

ポジティブな人は何が成功の原因か?と考える一方で、何が失敗の原因か?ネガティブな人はそこに目がいきがちなので、それを逆手にとりましょう。誰かの失敗談からもたくさん学べるはずです。

そうして積み上げていった先にまずやってみようがあります。それだとまずやってみようというスピード感からは程遠いと思うかもしれませんが、そう思っている間にも成功する人は成功するために思考を巡らせています。

とりあえず、まずやってみるために計画してみよう。これでどうでしょうか?

食べてみないと分からない味

イムリーな話、昨日久しぶりにカニを食べました。前回食べたのはいつだったか覚えていないくらい滅多に食べるものでもないので、楽しみな一方でカニってどんな味だったっけ?と思いながらお店に足を運びました。

要予約のフルコースでしたが、結果的にデザートのメロンを除いて最初から最後までカニ尽くしでした。それこそ、次食べるのは味を忘れた時でいいかなと思うくらい。

最初に出てきたのはスタンダードな茹でガニでした。これは知っている味。食べれば直ぐに思い出す、いわゆるカニの味。旨みが凝縮されていてとても美味しかった。

次に出てきたのは焼きガニでした。これは食べたことはなかったものの予想できる味。茹でガニに香ばしさを足したもの。寿司屋で赤エビの炙りを食べた時の感覚で予想がつきました。個人的にはこれが1番お気に入り。

最後に出てきたのはカニ刺しとカニしゃぶ。これも食べたことがなかった上に予想もつかない味。甘エビっぽいのか?いや、でも身は塊というよりは花が咲いているような見た目だし...。それなりの量出てきましたが、結局完食する最後まで自分の中でこれがカニであるという認識を当てはめきれないままの味と食感でした。ツブツブ感を伴った歯ごたえに甘エビのようなツルッとした舌触り、然して身は旨みの塊。ぜひ一度食べてみることをおすすめします。

さて、前者2つは美味しかったのはともかく、カニ刺しとカニしゃぶは美味しいのか美味しくなかったのかすら判断がつかないといった具合でした。

でもこれで実際に食べたという経験を得たことで、おそらく次食べる時には両者の味の評価が出来るようになっているはずです。いや、もしかしたら次食べる時もわからないかも...。

そもそも、食べる前から美味しいか美味しくないかなどはわかりませんね。なのに食わず嫌いという言葉があるように、口にしてもいないのに美味しくないと決めつける人がたくさんいます。

食事に限った話ではありません。ちゃんと観たこともない映画をこき下ろす人、会ったこともない人を毛嫌いする人、乗ったこともないクルマを駄作と貶す人などなど。

なんでもちゃーんと味わって、できれば何回か食べてから、もっと言うと他の似たようなものも何種類か食べてから、美味しいか美味しくないか評したいものです。

また、カニ食べに行かねば。

ボーッとするタイム

最近、出張が多いので何時間かの電車での移動時間が生じるわけですが、その間はほとんどボーッと外を眺めていることが多いのです。

隙間時間を埋めて仕事しないといけないほどカツカツになるような仕事量でもないのと、セキュリティ上の問題もあるので、電車内でPCを開いてカタカタ打ち込むこともありません。

かといって音楽を聞いたりスマホで動画を見たりアプリでゲームをしたりといったこともせず、ひたすら物思いに耽っています。

仕事柄・性格柄、普段からニュースや知識をインプットしていることが多く、ともすると常に調べ物をしていたり論文やら本やらを読んでいたりしています。

ただ、これだけでは情報が頭の中に入りっぱなしで整理されず消化不良を起こしてしまうため、食べすぎた日の胃のように頭がもたれた状態になってしまいます。

ここで大事なのは、情報を噛み砕き消化吸収することで、それは結局のところ得た情報を自分の頭で解釈し自分の言葉に置き換えて誰かに説明するかのようにセルフアウトプットすることだと思っています。

つまり、ボーッとしている時間で頭の中にいる誰かさんに最近得たニュースや知識を説明したり、はたまた討論を始めたりということをしているわけです。

情報は得ただけではありふれた他人のコピーにしかなりませんが、自分の言葉に置き換えて解釈しそれに対して自論を展開することで初めて自分の情報となり得ます。

政治や経済のニュースや専門書に書いてある知識だけでなく、映画やアニメを観た感想やSNSで話題になっている事象に対しても同じことが言え、自分がどのように受け止めてどのように解釈しどのような意見を持つのかが非常に大事なことだなと思うわけですね。

たまには暇を潰すのに情報のインプットではなくアウトプットを楽しんでみるのはどうかなと、全員がスマホと向かい合っている車内で思うのでした。

毎日にやる気はいらない

ここ半年は毎日、仕事から帰ったらすぐに夕食の支度にとりかかるようにしています。基本2人で作りますが、夕食といっても大したものを作るわけではなく、焼くだけ料理だったりレトルトに頼ったりと手抜きは当たり前ですが、それでもコンビニ飯やカップ麺を毎日食べるよりかはずっとマシだろうと思って作っています。一汁三菜などというのはまず無理で、頑張って一汁二菜、ほとんどは一汁一菜。三菜もあったらお腹いっぱいですし。

2人分作るので元が取れてる感じがしますが、自分の分だけだったら自炊は割高なのでまず作りません。仕事終わりに会社の社員食堂で食べる方が安いし早いし普通の定食が食べられます。

特段料理が好きなわけでもなく、(気持ち的には)そんなにやりたくはないけども(経済的・健康的には)やった方が良いくらいに思っている程度のものです。

 

"やりたくないけどやらなきゃいけないこと"ってたくさんあると思うんですよ。そういうことって、取り掛かるのにとてもエネルギーを要する、つまり重い腰を上げないと中々できないのが普通ですよね。僕にもそういうことがたくさんあるわけですが、最近はその対処法というか、やりたくないけどやらなきゃいけないことをさっさと片付ける方法を実践しています。

 

それは、考えないことです。

 

どうせやらなきゃいけないのであれば考えても仕方がないので、やるだけだということに気づいたわけです。ただ、やるだけ。

いや、その取り掛かるのが大変なんだということなんですが、そもそもなぜ人はみなやりたくないことに取り掛かれないのかというと、取り掛かる前に「やりたくないなぁ」と考えてしまっているからだと思うんですよね。そのやりたくないという考えが思い浮かぶ前に取り掛かってしまえば、コトは勝手に体が進めてくれます。

化学反応だってそうなんですが、その反応が始まる瞬間が一番エネルギーを必要とします。エアコンだってクルマだって、スイッチ入れて始動する時が一番エネルギーを食うって言いますよね?人間の行動だって同じです。であれば、その開始するときのエネルギー障壁を下げてあげればいいというわけです。

よく、効率のいい仕事術だったりなんちゃら思考法みたいな本がたくさん売れてますが、その中に「ルーティン化する」という言葉がよく出てきます。このことの本質は、行動を起こすときに考えないことだと思っています。定期的にやることが決まっているもしくはやることを決めたことに対して、毎回やるかやらないかを考えること自体おかしいですよね。やるのだからやるしかない。

したがって、やる気が出るのを待つなんてのはもってのほかです。やる気なんてなくたって、やりたくない気持ちさえ湧いてくる前に動いてしまえばなんとかなります。やる気はやりたいことをやる時に取っておきましょう。やらなきゃいけないことにやる気を消費しては、やりたいこともできなくなってしまいます。

とまあ、ともすれば昭和の精神論みたいなお話ですが、例えば体調が悪い時とかメンタル的に参っている時などは無理はしません。あくまでも、やりたくない気分が行動しようとする体を押さえつけないように仕向けるだけであって、そもそも体が動かない時は大人しくルーティンを止めておやすみモードに入ります。あとは、やらなきゃいけないことよりもやりたいことを優先したい時もあるわけで、そういう時はその気持ちのままにルーティンの輪から抜け出します。消極的やらないを解消する手段であって、積極的やらないはあって良いものかと。

当然、「あれやるの嫌だなぁ」とか「今日もやりたくないなぁ」などと嫌な気持ちになる機会も減るので、ストレスも減ります。人間考え方次第って言いますけど、考えないことも考えのうちですね。

不条理耐性のなさ

誰にでも嫌なことってありますよね。種類は色々あれど、嫌なことが全くない人っていないと思います。僕だったら、休み明けの仕事とか、高圧的な人とか、出先での腹痛とか、水泳の授業とか…。挙げたらキリがありませんね。

ではそういった嫌なことは完全に無くなったら良いのだろうか?経験しなければ良いのだろうか?という話です。

たしかに、理想的に人生が進んで自分が嫌だと思うことを全く経験せずに生きて行ければ良いように安易には思ってしまいます。ただ、現実的にそうはいかないため、ある程度の嫌なことはこなしていかないといけません。とはいえ、その程度は結構コントロールできる範囲があります。例えば、水泳の授業なんかは熱があったりして体調が悪いと休めるので、どうしても嫌な時はなんとなく理由をつけて休んだりしてました。そうして"逃げる"ことで、その場では楽な気分になるわけですが、それを繰り返すことで逃げ癖が付いてしまうという弊害があります…。

嫌なことがあったら逃げればいい。ブラック企業という言葉が世の中に定着して以降、働く環境が合わないと思ったら辞めてしまうのが良いと言われるようになり、入社式で辞める新人がいたり転職サイトのCMが増えたりと「会社を辞める=逃げる」という否定的な認識が改められて、より肯定的な見方をされるようになってきたように思います。僕も働く環境が合わなければ辞めることについて異論はありませんし、ブラック企業なんてどんどん潰れてしまえと思っています。

仕事のように逃げられることならいいですが、逃げられないことが世の中にはたくさんある上にその多くは規模が非常に大きいのが問題です。新型コロナウィルスの全世界での蔓延、ロシアとウクライナの戦争、円安物価高などなど、自分では対処しようもなく直接的にも間接的にも逃げることのできない社会不安が広がっています。

逃げ癖がついている人は、嫌なことから逃げるという対処法で身を守ってきているわけですが、どうしても逃げられない事象に遭遇したときに心身をやられやすいのではないかと思います。実際自分も、直接的な原因はわかりませんが、新型コロナが流行りだしたあたりから自律神経系に不調をきたしていて、少なからずや無意識のうちに社会不安の影響を受けているのだと思っています。

また、重すぎるランドセルを背負って通学することがつらいというのを小学生自身が解決しようとキャリーバッグスタイルを発案して大人から叩かれるなんて話が最近ありましたが、この解決方法自体に悪いことはないと思いますし、小学生自身が解決しようと考えて行動する問題意識の高さには感心しました。加えて、旧態依然とした通学の荷物の在り方に一石を投じるという意味で良い機会になったとも思います。さらには母校の高校の話ですが、男女が同じプールで水泳の授業を受けるということに反論した生徒がいるということでYahooニュースに載っていました。そもそも水泳が大嫌いな僕からすれば授業そのものがなくなってしまえと思っていましたが、よもやあの全長50メートル水深2メートルのプールが全国ニュースになるとは思いませんでしたね。

これまで常識とされていたことや不都合な真実に対して反論したり解決を試みることはとても大切なことですし、今後の世の中を生きる若い世代が生きやすいように変えていかないといけない側面がたくさんあると思います。ただ、あらゆる非合理的なことや不条理を解決しないと耐えられないような状態に陥ってしまうことに一抹の不安を覚えます。つまり、解決できない物事に遭遇したときにどうしようもなくなってしまうということです。さらに二次弊害として、自分が嫌だと思ったことはなんでも解決することに他人への配慮が含まれなくなると最悪です。他の人は良いと思っているけれど、自分は嫌だと思っているから無くしてやろうという思考になってしまったが最後、独善的で自己中心的なクレーマーが世の中に蔓延ります。今だってたくさんいますよね?子供の声がうるさいからといって公園での遊びを禁止させるような人がどんどん増えてしまわないか。杞憂でしょうか?

パワハラ防止法で上司から怒られなくなった社会人は、顧客からの要求に耐えられるのでしょうか?自分が上司の立場になったときに役員の厳しい方針に従えるのでしょうか?僕は自分にも問いかけています。自分の経験を客観的に見た時に見えてきたものでもあるわけで。

オヤジにも殴られたことないのに、艦長に殴られたら拗ねますよ、そりゃ。

比較の中毒

容姿端麗、頭脳明晰、親は金持ち、将来安泰。

親ガチャなんて言葉がネットニュースにもよく上がっていたりする今日この頃。

たしかに、現代に日本社会において経済格差をひっくり返すような、トンビからタカが生まれるような、つまりはアメリカンドリームな人生を歩むのは非常に難しいとされる。

だが、そのアメリカですら、いや、アメリカほど経済格差の大きい国もないのが実際で、日本などはまだマシな方だという。このあたりの事実は、何かしらの統計データを検索するかマイケル・サンデルの著書を読んで欲しい。

圧倒的ステータス差がないにせよ、人はちょっとした違いに敏感だ。小学生だって、テストの点数が1点違えば一喜一憂もするし、カッコイイ/可愛い人がいればその容姿を羨む。流行りのゲームを買って貰えない家庭の子は、常に新作を揃えている家庭の子を指をくわえて遠くから眺めているかもしれない。

人生において比較するという習性から抜け出せなくなってしまっているが故に、自分が劣っていると感じるところを自分自信が卑下してしまうことによって自己肯定感が下がってしまう。だが、この世が弱肉強食の競争社会である限りは、この比較という習性から抜け出すのはとても難しい。親ガチャという言葉自体、ガチャという確率要素から成り立っているが、比較社会へのある種諦めのような悲哀を感じる。自分の努力や選択に関係なく、否応なく人生を定められてしまう感覚が蔓延している現代社会はなんとディストピアだろうか。

自分自身、恵まれた環境に生まれた身であることにはとても感謝しているが、それにしたって上を見上げれば圧倒的にステータスもポテンシャルも高い人達がたくさんいることを実感している。さらに言えば、その上にいる人たちに聞いてもその上がいるというのだから、どんな環境や地位に置かれたとしても自分が自信を持って最上位であることを主張できることはないのかもしれない。

ナンバーワンよりオンリーワンと歌われるのも無理はない。比較することに疲れている。人の心が社会からの離脱を試みている。故に、個性が大事と民衆の代表は謳い、マイノリティな在り方を許容するように半ば強要しかける。例外をマジョリティ化することで、社会構造への反抗の流れを生み出す。誰かと比較することも無く、あるがままでそこに在るということ、それ自体に問題は無いように思われる。

だが、こういった流れによって成り立ち始めた"多様な生き方のできる社会"において、あるがままの自分もしくは自分の考え方を他人に許容することを強要することはあってはならないと思う。例えば、「現代社会では家事は夫婦で分担するもの」という考え方の人がいたとしても、その人はその価値観を他人夫婦に押し付けてはならないし、ましてや社会通念とすべきでも無い。「家事は女性がするもの」という昭和的な考え方がの人いたとして、それをこき下ろしてもならない。なぜなら、多様性を認める社会というのは、旧来的な価値観も含めてあらゆる生き方が"別にそれでもいいよね"と許容できるだけの包容力を持たせた社会の形であり、"そうあるべき"と押し付ける義務的な社会の形ではないはずだからだ。

そのような形で、マイノリティな在り方を許容するように強要するケースというのがあらゆるところでよく見られるように思う。新たな価値観を押し付けて従来の価値観をすり潰すかのような暴力的な反抗を行う者が。

彼らの駆動力は一体なんだろうか?思うに、比較という社会構造と人々の習性によって虐げられてきた長い積み重ねによる膨大な負のエネルギーではないだろうか。なにも個人的な恨みだけではない。比較の天秤に載せられた敗者の歴史に同調する人々が数多くいるのも間違いない。

反抗する者は一部だとしても、多くの人々が比較することに疲弊しきっているのは確かだし、その一方で比較することから抜けられない人が大勢いるのも確かだ。Facebookを見ると幸福度が下がるなどという研究結果があった。他人のキラキラした人生と自分とを比べてしまうが故だという。そうはわかっていても人々はSNSを見るのを止められないし、映えを求めてスポットに殺到する。

幸せってなんだっけなんだっけ。少なくともその場の一部を切り取った比較から生まれる充足感は一時的なものであり、長くは自分の中に残ってはくれない。誰かと比べることが悪いのではない。高い目標を目指して努力する人生の糧となるならば比較もまた良薬となるだろうし、独善的にならないためにも人との冷静な比較は必須栄養素のようなものだ。大切なのは、必要最低限に済ませるということ。あらゆる事を比較していては常に劣等感を感じながら生きていかねばならず、塩っぱい人生になってしまう。高血圧で頭に血が上ってカッカ反抗するのもまた見苦しい。素のままの、素材のままの自分をじっくり味わうところから始めるのが良いだろう。誰と比べるでもなく、自分は何ができて何が好きなのか?できないことは?嫌いなことは?よく噛んでみると誰にだってその人の味があるはずだ。かける醤油は程々に。しょうゆうこと。