めぐりあい
ふじみ野は生活圏といいますか、ららぽーとなんかもあるのでよく行くんですよね。まさに会社の同期が一人あの近所に住んでいるので、より身近に感じたという具合で。
亡くなられたお医者様にはご冥福をお祈りするばかりです。普段から医者にかかってばかりの人間としては兎角胸が痛い話でもあり…。
医療事故が云々ということですが、確かに医者は直接的に人間の生き死にに関わる仕事として責任が重いものと思われがちですが、果たして人命に全く関わりのない仕事などあるのでしょうか。
僕なんかはその辺のメーカー技術者ですが、自分が開発に関わる製品でもしトラブルがあった場合、その機械が止まってしまうわけですね。例えばこれが自動車だったとして、ブレーキが効かずに交通事故を起こしてしまえば…と、想像に容易いです。
さて、僕が学生の時に受けた講義に技術者倫理というものがありました。読んで名の如く、技術者における倫理観についての講義なのですが、これが全員必修なんですね。内容としては、設計ミスや品質の誤判断などで人命を奪ってしまった工業製品の例を歴史として学ぶというようなものだったと思います。はっきり覚えているのはチャレンジャー号爆発事故の話。詳しくはwikiでも読んでいただければと思いますが、あの凄惨な事故の機械的な原因は、低温環境における燃料タンクのOリングの固着破損による燃料の漏えいです。しかし、根本的な理由としては、それが事前に予測できたにも関わらずNASA上層部によって打ち上げが強行されたことにあったわけです。内部における詳しいやりとりは鮮明ではないですが、技術者らが打ち上げ中止を明確に提言できなかったこと、それに聞く耳を持たなかった上層部の責任というものが問われます。講義的には、君たち技術者になる身としては、その技術に責任を持たないといけないよというようなことだったと思いますが……もう数年前に聞いた講義なので詳細は割愛…。
ここまではあくまで一例ですが、他のどんな業種だろうと、直接的・間接的に必ず人の命に関わるところがあって、結局のところ自分は誰かに生かされているし自分は誰かを生かしているってことですね。「そう言われても自分には関係ねぇよ!」「そんなわけねーだろ!」と思っている人、つまりそういった相互作用で人間は生きているってことを想像できない人がああいう事件を起こしてしまうんですね。誰かの生き死にを特定の個人に転嫁し、起こってしまったことを認めることができない人が…。
さあ、今日も僕は色んな人に生かされています。今住んでいる家を建てた人、今日食べた昼ごはんの食材を生産してくれた人、電気を生み出し送り届けてくれる人、給料をくれる会社の人、なんかそばにいてくれる人…。
あの人はもういない。
引越しの準備をしようとして、車検に出しているGT-Rの代車のキューブのキーをひねると、どこか聞いたことのあるメロディが80.0Hzに乗って流れてきた。昭和53年のヒット曲だが、僕の地元が舞台の歌詞だからだろうか、生まれる遥か昔にも関わらずなぜか懐かしい。
そういえば就職で地元を離れるとき、この曲に見送られたのを覚えている。仙台駅の新幹線ホームの発車メロディがまさにこの曲なのだ。新幹線に乗るときいつも耳にしていたはずだが、その時ばかりはなんだかとても遠くに行くような感じがした。1時間半もあればあっという間に着いてしまうはずなのに。
今やどこへ行くにしても時間的な距離感は昭和53年に比べれば半分もない。そればかりか、電波に乗ってどこへでも行けてしまう。だけどどうだろう、みんな故郷へ省りたがる。案外と、心の距離は物理的な制約に縛られたままらしい。やはり人間は、物質的な生き物なんだろう。
一通り持ち物を車に詰めこんで、最低限の物だけになった自室を見渡す。こんなんでも生活はできるんだな。むしろ広くて快適じゃないか?そりゃ六畳一間じゃあな。それこそ昭和の貧乏人よ。
うるせえおれは平成生まれだぞ、と小さく叫ぶ。何もねえんじゃ小芝居か屁でもするしかねえ。隣に聞こえないようにスゥーっとするのがコツよぉ!
これまで隣人に何を聞かれていたかは定かではないが、ふとした時にきっと思うことだろう。ああ、そういやあの人は…
数IAの予想平均点が38点は酷いよね
自信とはなんだろうか?
少なくとも僕は自分にあまり自信がない。難しく言い換えると、自己評価が低い。そこそこの大学は出ているが、同期にもっと頭のいい奴はたくさんいる。それどころか、もっと偏差値の高い大学もある。その辺の人より車は詳しいが、設計できるわけでもないし運転が特別上手いわけではない。人に何かを説明するのは得意だが、さりとてそれで稼いでいる人たちには及ばない。比べても仕方ないのだが、比較ということをしたが最後。全てのことに上位互換は存在する。
自信をつけるコツは一つ。ひたすら経験を積むこと。
僕のこれまでの人生においてもっとも自信があったのは、大学入試の二次試験だ。センター試験が易化し平均点が上昇した中で、志望大学なら8割超え(つまり720点)は当たり前に必要とされた年だったが、僕はまさかの700点を割った。うそーん!なんて思ったものの、あまり悲観的にはならなかった。むしろなんとかなるとさえ思っていた。
志望大学はセンター試験の点数が半分に圧縮される上にその倍近くの点が二次試験で課されるという配分だった。つまり、二次試験で点を稼げばセンター試験のマイナス分はチャラにできる。二次試験の形式の方が得意だった僕は、この配分を見越してひたすら二次試験対策に全集中していた。鬼滅の刃連載開始4年前の出来事である。志望大学には見事合格したのだが、後から合格番手を確認してみると真ん中くらいの順位だった。要は、センター試験でビハインドがあっても、二次試験で十分覆せるということを証明したのだ。
ちなみに滑り止めは受けなかった。本命一本、猪突猛進。鬼滅の刃連載開始4年前の出来事である。滑り止めのための勉強も無駄だと思っていたこともあるし、ダメなら浪人すればいいやと思っていたし。
ひたすら目的に向かって計画的に(スケジュールを組んでという意味ではなく、目的を達成するために必要な事柄をこなすという意味で)勉強したということが全てだった。なんとかなると思える背景には必ず努力の道筋がある。
自信がないなら、それはメンタルが弱いとか気持ちの問題ではなく、努力が足らないだけかもしれない。
自戒。
認識と常識
まずは自分の更新低度の頻さに対するやる気のなさを疑え、と。
先日ある方(Mさんとしましょう)からこんな話をされました。なんでも、自分と他人が考えていることが違うことはよくあって、それは自覚しているとのこと。ただ、それがなぜ違うのか、自分が他人やその他大勢と違う感覚を持っているということがうまく説明できない、という話です。
モヤっとした話ではあったのですが、僕なりに「それは認識と常識が違うからじゃないですかね。」と考えを伝えてみたら、いたく感動されました。人生史上最大の衝撃とか言われちゃいましたが、僕はそれほどのことはしていないし、これも認識と常識の違いじゃあないですかね、なんて。
まず、ここでいう「認識」というのは、自分の五感であったりものの捉え方を指します。例えば、僕は寿司が大好物ですが、世の中には生魚が嫌いな人もたくさんいます。好き嫌いの理由はさておき、両者ではそのものに対する感じ方や考え方が違うという事実がありますね。
次にここでいう「常識」というのは、ある特定のコミュニティにおける共通の考え方や倫理観を指します。例えば、何かものを手に入れるためには対価であるお金を払うとか、他人を虐げてはならないなどといったことです。善悪の判断などもこれに相当しますね。みんなが当然そう考えていることとも言い換えられます。
さて、Mさんのモヤモヤは例えば何かというと、みんなでご飯を食べに行った時に、普通他の人では考えられないような調味料を料理に加えて食べてみたりするというものです。みんなからは、そんなのをかけても美味しくないだとか、よくそんなのかけて食えるねだとか、散々な言われ様らしいのですが、本人は気にも留めずに色々かけてしまうのだそう。そんなことを筆頭に、普通の人はやらないようなことを平気でやってしまい不思議がられることがしばしばあるのだとか。
ではどうして、いや、何が違うのか?と言ったら、その人の認識に対して常識が異なるわけです。
美味しい(美味しいかもしれない)と思っているあるいは感じている認識に対して、その料理にはその調味料は合わないという常識が異なっているんですね。ここで、それは逆で常識に対してその人の認識が違うのでは?と思った人もいるかと思います。しかしこの話において、僕は認識が主体であると考えています。認識なくして常識はないからです。
ある人がどう考えどう感じるかということが、複数人集まった時につまりコミュニティを形成したときに、コミュニティの維持に有利に働くような考え方が共通化したものが常識であるからですね。つまり、認識の最大公約数が常識であり、最大公約数に入りきらなかった部分が非常識、またはその人独自の認識となります。
これらを踏まえると、この方の食に関する認識はほとんど最大公約数に入っていないということが言えますね。ただ幸いなことに、犯罪につながるような認識の相違のある方ではなく、そういった意味ではある特定の認識だけが最大公約数の外にあるということです。
今、常識は認識の共通化したものであると言いましたが、つまりは常識はそのコミュニティの人々の認識によって大きく異なってくるということです。
例えば、高々80年前の日本とアメリカは忌み嫌う仲であり鬼畜などと呼び傷つけあっていたわけですが、現代の世の中でそんなことを言い出したらそれこそ世界から常識はずれ扱いされてしまうわけです。ハーケンクロイツや人種差別や奴隷制度なども同じく、現代では最もあってはならない倫理観の欠如の事例です。
しかし、これらはその時代の世界では当然の考え方として存在していたのであり、当時の常識であったわけです。ほどなくして世界の人々の認識は変わり、常識が変わっていったわけです。もし認識が変わらなかったら恐ろしいことになっていた…と思う人もいるかもしれませんが、おそらくそのように人々が当時の認識のまま時が進んでいればそれが現代の常識となっている、つまりはみんながそれが当たり前だと思っている世の中になっているわけですね。
当たり前のことに対して誰からも指摘を受けていないのに疑問を持つ人が一体どれだけいるでしょうか?
過去から現代につながる常識というのは、歴史上の人々の認識によって保証されているのではなく、その存在を担っているだけであり、現代の人々の認識がそれを証明し続けているだけなんですね。
常識というのは誰しも同じものを持ち合わせていますが、認識は人それぞれ異なります。Mさんは常識に対して自分の認識が異なっていることについてモヤモヤしていたわけですが、こう考えてみると自分の認識が他人の認識の集合体である常識に対して異なるというのは当然のように思えてきますね。
ちなみに認識の一つである視覚については色の感じ方に個人差があることが科学的に証明されています。興味のある人はきちんと論文化もされているのでググってみて欲しいのですが、眼球の網膜における赤色とされる光の波長を認識するセンサーのピークトップが人によって異なるらしく、つまりは同じ赤色を見ても自分の見ている赤色と他人の見ている赤色が第三者から見ると違う色であるという結果が得られているそう。もっと簡単に例えると、同じテレビの映像なのに自宅のシャープのテレビで見る赤色と友達の家のソニーのテレビで見る赤色が異なるというようなそんな感じです。
処理している脳の中での差異かと思いきや、入り口であるセンサーからして違うとなれば、この世界の見え方は人によって全然違うんだという想像が働きませんか?
もしかしたらMさんから見えている僕は、僕の認識に照らし合わせると人間の姿をしていないかもしれない…。
井の中の大蛙は案外幸せかも
ご無沙汰ですね。月一投稿のつもりが、だいぶおサボりマンになっていました。
今回は現状の人生がうまくいっているという話とうまくいくためのヒントみたいなホラーです。
さて、今年度で社会人4年目を迎えたわけですが、この度めでたく昇級しましたとさ。夏ボーナスも査定マシマシで最高だぜ!といったところです。
つまりはそれなりに上司から評価されているというわけですが、ほぼ毎日定時で帰ってるしこれといった大きな成果を上げているわけでもないつもりでいるのになぜ?
いろいろ考えたところ、端的に言うと「重宝されているから」に他ならないなと。
僕の専攻は金属を中心とした材料工学なわけですが、弊社は金属材料を結構扱っているにもかかわらず、それなりの専門家がほとんどいないのですね。
なんとなくわかる人はいても、ツッコんだ話になると見解が出せない人がほとんどで、それなりの専門家たる人がワンマンでやっているような状態だったわけです。
そこでぽいその登場だァ!!!
そういう環境なので、大学では中の中か下にいた僕でも教科書片手に無双できるわけですね。実質金属材料ではNo.2なわけです。それ以外にも、化学を解る人も少ない(≒要は機械屋さんが多い)ので、こちらでもそれなりの地位を獲得できるわけです。
そう、強くてニューゲーム。
もしこれが、金属材料メーカーだったりそれなりの専門家が多い会社に入っていたら、おそらく中の中か下にいたことでしょうし、昇級も査定マシマシもなかったでしょう。
レベルの高いところで揉まれた方が自己研鑽にもなるのでは?という意見もあるでしょうが、社内におけるそれなりの専門家の地位を確固たるものにするための努力というのは必要なので、競争が得意かどうかによるんじゃないかと。僕は苦手。
捉えようによっては、会社という狭いコミュニティでオラついているということになるわけですが、周囲のレベルが高いところで縮こまって存在感のない平社員でいるよりは良くない??というのが僕の意見。
根本的には地方でブイブイいわせているマイルドヤンキーと一緒です。地元で就職し地元で遊び地元で結婚し地元に家を建て地元で子供を育て…でもあの人たち幸せそうじゃないですか?少なくとも就職して東京に出て寝るだけの部屋に高い家賃を払っている人たちよりかは。
彼らの視野はおそらくとても狭いはず。地元しか見えていないわけです。ただその狭い視野のおかげで下手に上を見なくて済んでいるのがミソ。
世の中の広さを知って自分よりももっと優秀な人がいて良い暮らしをしているなんてことを知らなければ自分がベストだって思い込めるわけですからね。
よく海外に行って考え方が変わったなんていう人がいますが(その程度で変わってしまう己の価値観はどんだけ芯がないんだという話はまた別の機会に)、日本の悪いところばかりが目についてしまう人もいるわけです。海外移住前提ならまだしも、日本に居続けるならば悪いことが増えただけで余計に住みづらくなってしまう。良いこともたくさんあるでしょうが、それならその時間と費用で日本の良いとこ探しをする方がよほど有意義だと思ってしまうのが僕ですね。
最近、幸せ指数世界一のブータンの幸せ具合がどんどん落ちていると聞きました。なんでも、ネットで世界のあらゆる情報が入ってくるため、他の国の暮らしを知ってしまったばかりに自分たちが実はそこまで良い暮らしをしていないんじゃないかということに気づいてしまったとかいう話。
SNSもそうですね。フェイスブックで他人の幸せ投稿を見ると自分の幸福度が落ちるとかなんとか。そりゃあみんないい話しかしませんからね。成功結婚名誉栄光富などなど。それぞれ別の人の投稿が一個の巨大で偉大な個人として認識してしまうわけですね。
知らぬが仏とはよく言ったものです。
そんなもの、知らなければ幸せだったのに。
不幸は囁いています。「ククク、お前は知りすぎた…」
エヴァの呪縛からの解放。東日本大震災後10年の節目に寄せて。副題「コロナ禍を生きる。」
【警告】ネタバレを含むので、まだ観ていない人は早く観てね♪
【警告】感想と感慨深さと色々がオタク特有の早口言葉で語られているだけです。文章としてこれといった捻りはありません。
【警告】途中、泣きながら書いています。
【警告】ポジティブ解釈多めです。
シン・エヴァンゲリオン劇場版:||を公開初日に観てきました。
前作のQから9年。新劇場版開始からは14年、TV放送版からは実に25年。
日本のアニメや漫画には長く愛される国民的作品がいくつもありますが、新作の間隔がこれほど長いものもそう多くはないでしょう。
僕はちょうどシンジ君らと同じ14歳、中二の頃にアニメと漫画を見てどハマりし、
新劇場版をリアルタイムで映画館で観てきた世代となります。
それが今やミサトさんや加治さんらとほぼ同じ年齢にまでなってしまい、
中二の少年はサラリーマンになってしまいました。
さて、シンエヴァの内容そのものはというと、これ以上なくとても面白く、よくまとめたなという印象です。
観ている最中は情報量の多さに頭をフル回転させていましたが、後になってシーンを思い出すと込み上げるものがあります。
庵野監督、本当に素晴らしい作品をありがとうございます。
まだ1回しか観ていないので細かいところは解釈が追いついていないにせよ、過去作などでもこれまで言及されていなかった内容に対し
だいぶ説明がされていましたし、話の流れも明快でとてもわかりやすかったのではないかと思います。
デュフデュフと色々と語りたいところはあるのですが、僕が(おそらく多くの人が)シンエヴァを観て最も強く受けたメッセージは
「希望」です。
例えばAパートの第3村は震災直後の東北沿岸地域を彷彿とさせますし、そういった中でも手を取り合えば人々は強く生きていけるという
Qの陰鬱とした雰囲気とはまるで正反対の情景が映し出されます。震災経験者としては、このパートは明るい雰囲気ですが後から思い出すと泣けます。
庵野監督は鶴巻さんや摩砂雪さんらに被災地に無理やり連れて行かれたそうですが、その時の経験が以降の作品に反映されているのでしょう。
シンゴジラが東日本大震災そのものなこともありますが、やはり庵野監督が相当に影響を受け、エンターテイメントを作る側として
世の人にこういった絶望の中にも生きる術や未来はあるのだということを知っておいてほしいという願いが感じられます。
ただし、そんな中でも、今時の若者風に描かれているキャラであるミドリの後半パートにおける「明日生きることだけ考えよう」というセリフには
重みを感じざるを得ません。
現実に全員が明るい未来を描いて生きていけるわけではなく、特に震災直後においては明日どころか今日生きていくことさえ
精一杯な人がたくさんいたわけです。コロナ禍の今でも、職を失い成す術のない人がたくさんいます。
そういった現実を若者代表のようなミドリが代弁していると思うと、良いことばかりの提示ではいけないことを示しているような気がします。
また、過去との訣別が直接的または隠喩的に描かれており、前に進んでいく意思を感じました。
最後にシンジ君は全てのエヴァンゲリオンを消し去るわけですが、エヴァンゲリオンという作品をこれで終わらせるという
庵野監督の意向もオーバーラップするわけです。25年も関わったアニメ作品をここで終わりにする、庵野=エヴァ という評価を区切り、
新たにやりたいことをやるという意向もあるでしょう。
過去との訣別は容易なものではありません。昔はこれができた、あの人が生きていた、あの街並みが懐かしい、あの世間の雰囲気は…
震災もそうですが、奇しくもコロナ禍についても同じことが言えるのでは。
「あの頃」を思い出すようになると人は老いるといいます。
一変してしまった世界や人を元に戻そうと嘆くのではなく、自らを順応させたり新たな仕組みを作ったり、
そういった柔軟性や創造性が問われているのではないかと。
エヴァ新劇場版自体、従来のアニメーション映画とはかなり異なる製作方法がとられています。
音声、作画、コマ割り、果ては構想まで、通常では考えられないような手法で。
アフターコロナがどのような世界になるかは誰にも予測がつきませんが、「古き良き時代」に固執しないことが必要という主張を
作品つくりを通して訴えているようにも思えます。
少し話はそれますが、シンエヴァの中でその行動と目的についてものすごく魅力的に見えたのが、加治さんです。
サードインパクトを止めるために犠牲になったということもありますが、植物種の保存のために
インパクトの影響を逃れられるような惑星間航行船(ヴンダー)を建造し運用する手筈であったと。
形容が難しいですが、人間のエゴに囚われない科学者のようで実にカッコよく映ります。
TV版旧劇場版の二重スパイのニヒルな役とは異なり、明確な目的を持っているキャラクターとして描かれていることに
感動すら覚えます。
それから、いろんなキャラ同士がくっついていたり夫婦になっていたり子供が生まれていたりと、未来が紡がれていくメタファーとして
人の繋がりが描かれていたのが特徴的です。
結局のところエヴァは、ゲンドウが一度失ったユイさんにまた逢って一緒にいたいだけの話(とかいったら怒られそう)なので、
ある意味ラブストーリーなわけです。
それもあってか、シンエヴァでは初めてハッキリとアスカはシンジが好きだったと言ってますし、
アヤナミレイ(仮称)も短期間で好きという感情を覚えましたし(シンジくんを好きになるようプログラムされているとは言っていたが…)
好きの関係図が割と明確です。
トウジと委員長は納得ですし、ミサトさんに加治さんとの子供ができていたと思うとQのセリフや行動の数々を見直さなければという具合で、
アスカがケンスケをケンケンと呼んでいるのがまた可愛い。ケンスケは大人になって加治さんに似ましたね。サバイバルオタクが役に立ったと
トウジも言っていますが、ああいう逞しさがアスカには魅了的に映るのでしょう。DIYできる男がモテる時代です。
ラストシーンでシンジとマリがくっついている様子なのは賛否両論あるのでしょうが、
シンジ君が庵野監督でマリが監督の奥さんの安野モヨコであることを考慮すると納得な上、
エヴァを終わらせるためには初期から出ている綾波やアスカではダメで、破で新しく登場したマリではないといけないのでしょう。
過去には綾波派とアスカ派が二大派閥としてやんややんやと盛り上がっていたわけですが、そういった昔の流行りやこだわりを
横槍を突くように出てきた新キャラがシンジとくっつくことでぶっ壊し、古参オタクよ目を覚ませという目的もありそうです。
ちなみに、僕は破以前は綾波が好きでしたが、破以降はマリが好きなので主観的にも今回の締めくくりはとても好きです。
シンジ君も言うように、乳のデカい良い女、中身はおっさん、にゃにゃにゃにゃにゃ。堪らん。
閑話休題。
人の繋がりというのはATフィールドの概念からしてエヴァの根幹を成す設定なのでしょう。
他人と関わるか否か云々というのが旧劇場版のメッセージでしたが、新劇場版ではそれは前提であり
どう関わるか?それによってどういう選択をするか?ということが問われています。
エヴァのない世界を望み、自らの意思で全てを壊し作り替えていく。ヴィレの人たちがガイウスの槍を作った時は鳥肌が立ちました。
人の手によってまだまだ世界は変えられる。より良くしていける。一人ではできないけれど、みんなで力を合わせれば。
そんな一見子供じみたメッセージですが、普遍的であり、特に今の世の中における最も重要なことではないかと思いました。
シンゴジラでも日本人はまだまだやれると主張していますし、決して楽観的にまあ深く考えなくてもなんとかなると考えているのではなく、
我々の持つ知恵と繋がりと思いやりと温かみ(綾波の言うポカポカするってこれを暗示していると思います)を総動員すれば、
圧倒的な物質量や高効率なシステムで攻めてくる使徒のような政治経済国家世界情勢にも勝ることができると言いたいのではないでしょうか。
個人としてみた時にも、一人で生きてこうとする人にはこの先はより厳しい世界となっていくことが予想され、
誰かに頼り誰かに頼られ、目に見えない穏やかな春の陽気のような信頼関係が人生を形作っていくことを示しているに違いありません。
庵野監督自身、新劇場版以前にご結婚なされています。そのことが新劇場版の内容に大きく影響したと考えて良いはずです。
もちろん旧劇場版後新劇場版以前あるいは製作途中には世間を揺るがすさまざまな出来事が起こっています。
しかし、作品の結末だったりメインテーマは監督自身に関わることから発生しているはずなので、やはり人間関係に着地するのではと。
ラストシーンにかけてシンジ君とマリがくっつき、最後の最後でシンジ君はマリの手を引いて「行こう!」と走り出します。
庵野監督が奥さんとともに新しい作品作りに邁進するという解釈も容易にできます。
しかし、シンジ君としてみれば、これまで自分の意思で物事を決めることができなかった、それによってアスカはシンジ君を殴ろうとまでした、
それが自分から大事な人を連れてどこかへ走り出す。それも電車を待って乗るのではなく駅構内から飛び出して外へと。
これを希望に満ち溢れた若者がまだ見ぬ未来に向かって突き進む姿ととらえずしてなんでしょうか。
とにかくこのラストシーン、とっても好きです。シンジ君の声がまさかの神木隆之介に変わっているのも、もう昔のシンジ君ではなく
声変わりもして成長した大人の姿なんだと。
この辺の素晴らしさは言葉では良い表せません。希望に満ち満ちたとても前向きな作品として完成したと思います。
さて…。言いたいこと全てを書き切ることはできませんね。きっとエヴァのなんとなく全てをしっかり語らないところも
そういうことなんだと思います。言葉とは有限なものです。
庵野監督、エヴァンゲリオンに関わった方たち、素晴らしい作品をありがとうございました。
我々若い世代がやらねばならないのですね、NEON GENESIS。
そして最後に、
おやすみ
おはよう
ありがとう
さようなら、全てのエヴァンゲリオン。
無駄無駄無駄無駄無駄ァ!!
どうも、芥見下々の知り合いの知り合いの知り合いです。
呪術廻戦面白いですね。鬼滅の刃よりもこっちの方が好きかも。比較するものではないけど。
宮城県は石ノ森章太郎、荒木飛呂彦、いがらしみきお、大友克洋、大河内一楼、丸山正雄等々著名な漫画家やアニメ関係者が多くて舞台になることもしばしばなので、もっと自治体で漫画アニメを推しても良いのではと。
さて、僕は無駄が好きでしてね。
例えばこれ、GT-R。
30年前の車にしてうん百万円。ツインターボ280馬力。どこで使うっちゅうねん。
ハイオク燃費7~11km/l、アテーサET-S、ハイキャスなどなど。少なくとも公道では殆ど使うことのない装備ばかりですね。
とっても無駄の多い車です。
他にはこれ、機械式時計。
いわゆる電池で動くクォーツ時計と異なり、電気を一切使わずに機械の力だけで動きます。
そのため、正確さには欠け、毎日一日中身につけでもしなければゼンマイを巻かない限り止まります。
しかも数年ごとにオーバーホールしないと調子が悪くなります。
時間がわかれば良いならチプカシでも良いし、今時はスマホで十分という人もいるわけで、とっても無駄の多い時計です。
最近買ったものではこれ、アコギ。
何が無駄って、僕の奏でる音に意味はないわけですよ。
ましてやド初心者なので、毎日の練習で発せられる音は隣人にとってはきっと雑音に違いないと。
これで商売しようとかYouTubeにアップして稼ごうなんて毛筋程も考えていないのに、
結構良い値段してしまいました。とっても無駄な買い物です。
あとはこの文章を書いている時間とかですかね。
出版するわけでもなく、歴史を記す記録でもなく、ただ書き連ねているだけです。
今までフリック入力だったのが、長文を打つにはどうにも疲れるため、ワイヤレスキーボードまで買ってしまいました。
とっても無駄な時間に対するとっても無駄な投資です。
さて、無駄ってなんでしょうね。
多分この調子で並べていくと、後に残るのは生きていくためのお金と住まいくらいでしょうか。
いや、そもそも生きるということの最終地点は死ですから、死に至ること以外は全て無駄なのでは……。
すると、呪術回戦の「せめて自分が知ってる人くらいは正しく死んでほしい」というセリフが深い意味を持つように感じられますね。
閑話休題。
無駄なことなんてないのではなく、大体のことが無駄なんだろうな。
という考え方をしてみると、今まで意味があると思っていたことや無意味だと思っていたことの価値基準がリセットされます。
余談ですが、無駄という言葉の語源は、馬に積荷を載せていない状態から儲からないことだそうです。
SNSや過剰な情報によってより一層他人の大衆の価値基準に振り回されやすい昨今ですから、
背負ってしまっている「無駄な積荷」を降ろしてみるのはいかがでしょうか。