アリスとテレスの矢

考え事が多いもので。

認識と常識

まずは自分の更新低度の頻さに対するやる気のなさを疑え、と。

 

先日ある方(Mさんとしましょう)からこんな話をされました。なんでも、自分と他人が考えていることが違うことはよくあって、それは自覚しているとのこと。ただ、それがなぜ違うのか、自分が他人やその他大勢と違う感覚を持っているということがうまく説明できない、という話です。

 

モヤっとした話ではあったのですが、僕なりに「それは認識と常識が違うからじゃないですかね。」と考えを伝えてみたら、いたく感動されました。人生史上最大の衝撃とか言われちゃいましたが、僕はそれほどのことはしていないし、これも認識と常識の違いじゃあないですかね、なんて。

 

まず、ここでいう「認識」というのは、自分の五感であったりものの捉え方を指します。例えば、僕は寿司が大好物ですが、世の中には生魚が嫌いな人もたくさんいます。好き嫌いの理由はさておき、両者ではそのものに対する感じ方や考え方が違うという事実がありますね。

 

次にここでいう「常識」というのは、ある特定のコミュニティにおける共通の考え方や倫理観を指します。例えば、何かものを手に入れるためには対価であるお金を払うとか、他人を虐げてはならないなどといったことです。善悪の判断などもこれに相当しますね。みんなが当然そう考えていることとも言い換えられます。

 

さて、Mさんのモヤモヤは例えば何かというと、みんなでご飯を食べに行った時に、普通他の人では考えられないような調味料を料理に加えて食べてみたりするというものです。みんなからは、そんなのをかけても美味しくないだとか、よくそんなのかけて食えるねだとか、散々な言われ様らしいのですが、本人は気にも留めずに色々かけてしまうのだそう。そんなことを筆頭に、普通の人はやらないようなことを平気でやってしまい不思議がられることがしばしばあるのだとか。

 

ではどうして、いや、何が違うのか?と言ったら、その人の認識に対して常識が異なるわけです。

 

美味しい(美味しいかもしれない)と思っているあるいは感じている認識に対して、その料理にはその調味料は合わないという常識が異なっているんですね。ここで、それは逆で常識に対してその人の認識が違うのでは?と思った人もいるかと思います。しかしこの話において、僕は認識が主体であると考えています。認識なくして常識はないからです。

 

ある人がどう考えどう感じるかということが、複数人集まった時につまりコミュニティを形成したときに、コミュニティの維持に有利に働くような考え方が共通化したものが常識であるからですね。つまり、認識の最大公約数が常識であり、最大公約数に入りきらなかった部分が非常識、またはその人独自の認識となります。

 

これらを踏まえると、この方の食に関する認識はほとんど最大公約数に入っていないということが言えますね。ただ幸いなことに、犯罪につながるような認識の相違のある方ではなく、そういった意味ではある特定の認識だけが最大公約数の外にあるということです。

 

今、常識は認識の共通化したものであると言いましたが、つまりは常識はそのコミュニティの人々の認識によって大きく異なってくるということです。

 

例えば、高々80年前の日本とアメリカは忌み嫌う仲であり鬼畜などと呼び傷つけあっていたわけですが、現代の世の中でそんなことを言い出したらそれこそ世界から常識はずれ扱いされてしまうわけです。ハーケンクロイツや人種差別や奴隷制度なども同じく、現代では最もあってはならない倫理観の欠如の事例です。

 

しかし、これらはその時代の世界では当然の考え方として存在していたのであり、当時の常識であったわけです。ほどなくして世界の人々の認識は変わり、常識が変わっていったわけです。もし認識が変わらなかったら恐ろしいことになっていた…と思う人もいるかもしれませんが、おそらくそのように人々が当時の認識のまま時が進んでいればそれが現代の常識となっている、つまりはみんながそれが当たり前だと思っている世の中になっているわけですね。

 

当たり前のことに対して誰からも指摘を受けていないのに疑問を持つ人が一体どれだけいるでしょうか?

 

過去から現代につながる常識というのは、歴史上の人々の認識によって保証されているのではなく、その存在を担っているだけであり、現代の人々の認識がそれを証明し続けているだけなんですね。

 

常識というのは誰しも同じものを持ち合わせていますが、認識は人それぞれ異なります。Mさんは常識に対して自分の認識が異なっていることについてモヤモヤしていたわけですが、こう考えてみると自分の認識が他人の認識の集合体である常識に対して異なるというのは当然のように思えてきますね。

 

ちなみに認識の一つである視覚については色の感じ方に個人差があることが科学的に証明されています。興味のある人はきちんと論文化もされているのでググってみて欲しいのですが、眼球の網膜における赤色とされる光の波長を認識するセンサーのピークトップが人によって異なるらしく、つまりは同じ赤色を見ても自分の見ている赤色と他人の見ている赤色が第三者から見ると違う色であるという結果が得られているそう。もっと簡単に例えると、同じテレビの映像なのに自宅のシャープのテレビで見る赤色と友達の家のソニーのテレビで見る赤色が異なるというようなそんな感じです。

 

処理している脳の中での差異かと思いきや、入り口であるセンサーからして違うとなれば、この世界の見え方は人によって全然違うんだという想像が働きませんか?

 

もしかしたらMさんから見えている僕は、僕の認識に照らし合わせると人間の姿をしていないかもしれない…。